ハーモニック・ディストーション:アナログ機器特有の「特別な何か」とは?
ハーモニック・ディストーション(高調波歪み)はアナログ録音において、アナログ録音特有の暖かさを付加することに役立てられてきました。この記事では、その使い方について説明します。
2020.01.01
ハーモニック・ディストーションは、アナログ機器の仕様において頻繁に耳にする言葉ですが、何を意味するのでしょうか?また、オーディオを取り扱う日々の業務において、どのような役に立つのでしょうか?
音の深さ、強さ、ディストーションの重さ、またはそれらを複合的に変化させるようなデジタルツールは、多数存在します。
(Vitamin Sonic Enhancer、 Cobalt Saphiraなど)
この記事では、アナログ機器特有のテンションを伴った高調波の暖かさに焦点を当てます。
デジタル録音によるレコーディングは、比較的きれいな倍音のパレットを残します。そのため、アナログ機器特有の暖かさを実現するには、意識的にミックスにハーモニック・ディストーションを追加してあげる必要があります。
ここでは、デジタル制作のためにモデリングされたアナログ機器ツールをいくつか紹介し、オプションや用途について解説します。
ハーモニクス:定義
ハーモニクス(倍音)とは、音の基本周波数の整数倍の成分であり、 音に深み、色、存在感、キャラクター、暖かさなどを加え、全体の音色を決定します。シンプルな正弦波よりも複雑な音は、基本的な音程よりも高調波成分が多く、これによってフルート、ピアノ、ギターの音色とヴァイオリンの音色を区別することができます。
高調波は偶数と奇数の2種類に分類されます。偶数倍音は偶数倍(2,4,6,8など)の倍音であり、奇数倍音は基本周波数の奇数倍(3,5,7,9など)の倍音です。たとえば、基音が1kHzの正弦波の場合、2kHzは偶数倍音、3kHzは奇数倍音です。それぞれのセットは明確な違いをもたらし、音色を変化させるのに重要です。
この原理と同様の現象が以下の状態でも発生します。アナログ機器に音を入力すると、アナログ機器特有の副作用が加えられます。元のオーディオ波形にアナログ成分が追加されることで、少し変化が加えられます。これらの歪みは、電気部品の物理的な特性によって発生します。
きちんと設計された真空管や変圧器のような一部の部品は、音楽的に音を歪ませます。アナログテープのような磁気媒体は、ハーモニック・ディストーション、変調歪み、コンプレッションなどによってオーディオ信号を歪ませます。これらの取り扱い方法によって、ハーモニック・ディストーションがどの程度広い範囲に渡って追加されるかが決まります。
では、ハーモニック・ディストーションを付加するためのいくつかの方法を実際に見てみましょう。
1.プリアンプによる歪みを加える:色付けの第1段階
ハーモニック・ディストーションによる最も明白な違いが現れる例は、異なるメーカーのアナログ・コンソールを通すことによって、サウンドが変化することです。いくつかのヴィンテージコンソールでの作業経験がない限り、さまざまな特性の全体を理解することは難しいかもしれません。慎重に設計された各コンソールは、副産物としてユニークな音質特性を持っています。
これらの特性は全て、プリアンプの段階から始まります。アビー・ロード・スタジオのREDDコンソールのプリアンプ・エミュレーションのような真空管パワー、TG12345、Helios、Neveコンソールのソリッド・ステートのようなプリアンプ・ステージは、入り口であるプリアンプ段階で、そのコンソール独特の音色が与えられ、後段の処理が行われます。
Heliosプリアンプ:Kramer HLS
最初のヘリオスコンソールは、1960年代にオリンピックスタジオのためにカスタム製作され、ジミヘンドリックス、ローリングストーンズ、レッドツェッペリンなどの伝説的なアーティストが使用しました。ソリッドステートデザインは、60年代後半から70年代の音楽の多くを決定づける、よりアグレッシブなサウンドへの動きへと繋がりました。Heliosコンソールのプリアンプステージは、ノミナルレベルでは暖かいサウンドを保ち、強めるとエッジの効いたサウンドへと変化します。
Kramer HLSプラグインのマイク/ライン・プリアンプ設定では、その独特のサウンドを試していただけます。オリジナルのコンソールでは、より多くのハーモニック・ディストーションを発生させるためにプリアンプを高く設定すると、レベル自体も上がってしまいますが、Kramer HLSエミュレーションによって、ゲインを増加させることなく、異なるプリアンプ設定を切り替えることができます。
プリアンプステージを駆動すると、サウンドを生き生きさせるために、奇数および偶数の高調波成分が追加されます。ベースの中に、少しうなっている成分が含まれているのがお分かりになるでしょうか?クリップの後半部分でKramer HLSを適用すると同時に、この成分が重く変化するのが分かるでしょう。
Kramer HLSプリアンプでベースに変化を生む方法(音声ファイル)
Neve preamp: Scheps 73
Neveコンソールは、1970年代の音楽シーンにおいて、その暖かさとパンチの効いたサウンドで伝説を作りました。Neveコンソールの中で最も広く評価されているプリアンプは、1073 EQのものです。このプリアンプは中音域のダイナミックなパンチを保ちながら、暖かさの成分を追加します。Neveのプリアンプ・ステージにおける幅広いダイナミック・レンジは、豊かで暖かみのあるサウンドを維持します。また、ラインレベルの信号をマイクプリアンプに入力すると、ソリッドステートのエッジの効いた豊かな倍音成分を得ることができます。それは、3バンドのトーンシェイピングを行う1073 EQを完全に補完します。
ラインレベルとマイクレベルの信号のプリアンプについても、Scheps 73で切り替え可能です。よりクリーンなプリアンプ設定の微妙な設定とは異なり、ドライブを効かせた設定ではハーモニック・ディストーションが発生し、エッジの効いた倍音成分が強調されます。この設定を使用するときは、出力レベルのバランスを忘れないようにしてください。
この例では微妙な違いしか感じられないかも知れませんが、Sheps 73が適用されたときに、キックがタイトに感じられることや、またスネアとハイハットが生き生きとサウンドするのを確認してみてください。
ドラムサウンドにSheps 73プリアンプを適用
2.コンソールごとのキャラクターとサミング用電子機器の使用
オーディオ信号がプリアンプを通って記録メディアに流れるときや、そしてモニタリングのためにスピーカーに流れるときには、電気的な負荷がかかります。その際、電子部品の特性に応じて、周波数応答、高調波、クリッピング、およびノイズなどの副作用が追加されます。イコライザーやコンプレッションが全く設定されていない場合でも、これらの累積的な効果によってサウンドに色付けが加えられます。
個別のコンポーネントはアナログコンソールの「サウンド」を補完するものではありませんが、Waves NLSは複数のチャンネルの相互作用を含めて、コンソール全体の入力ポイントと出力ポイントの間のギャップを埋めるものです。ユニークなチャンネルストリップの非線形サミング(NLS)は、ミックスバスに集約され、全体のサウンドを決定づけます。
アナログコンソールで最も興味深いのは、2つのチャンネルストリップがまったく同じサウンドになることはないということです。これは、各部品の特性を完全に同一にすることはできないという現実によるものです。本物のサウンドを保つために、NLSプラグインは32のバリエーションのチャンネルストリップと最終的なミックスバスでのサミングを考慮しています。これをミックスに追加することで、3種類のアナログコンソールのうちの1つを通過させることによって生じる微妙な違いをサウンドへと付加します。
ヘッドフォンやスピーカーを使って、オーディオの変化をモニタリングしたいと思うでしょう。ベースの定位がタイトに感じられるとともに、ギター、オルガン、ドラムなど、特に中高域の成分が生き生きとするのに注目してください。音楽においては、微妙な深み、タイト感、フィールのいずれかの効果となって現れます。ミックスの中で各トラックは単に隣り合って再生されるのではなく、サウンドの一体感が生み出されます。
NLSによるバスミックス
3.真空管とアナログテープの歪みを加える
1940年代後半から1980年代に至るまで、真空管やアナログテープは、ほとんどすべての録音の重要な部分を占めていました。 ほとんどの場合、デジタル録音はその後の数十年でアナログテープを置き換えましたが、「アナログ特有のサウンド」がキャプチャされ、プラグインエミュレーションの形での再利用が可能となりました。一方、真空管はハードウェアの形で耐久性が増してきましたが、DAWの分野でも強力な復活を遂げました。
真空管は、音楽をより良い音にするための強力な要素でした。設計に応じて、デジタル録音に豊かさと可聴性をもたらす暖かい高調波成分を加えることができます。テープのハーモニック・ディストーション特性と相まって、暖かさのための真空管の追加とテープ圧縮による自然なサウンドは、Kramer TapeとJ37エミュレーションを他の追従を許さないほどに強力なタッグへと押し上げました。
Kramer Tapeで真空管の暖かさをプラス
50年代と60年代のテープマシンでは、オーディオ品質を向上させる手段として、入力と出力の増幅段で真空管を使用することがよくありました。これは、Kramer TapeでエミュレートしているAmpex 351テープマシンにも当てはまりました。このエミュレーションで最も驚くべきことは、真空管ステージのハーモニック・ディストーション特性がテープのコンプレッション特性とは別にキャプチャされている点です。これにより、テープリールの電源を切った状態でもプラグインを使用することができ、必要に応じてチューブの温かさをプラスするためだけに使用することができます。
次の例では、Kramer Tapeの回路を通すことで真空管の暖かさが加味される例を示しています。ミックス全体がより暖かく飽和したように聞こえるのが分かるでしょう。
Kramer Tapeによるミックスバス
テープ歪みのためのKramer Tape
磁気テープは、アナログオーディオを変化する磁界の中で記録することが可能な磁気メディアです。テープの周波数特性と歪み特性を制御することはやや複雑な問題です。録音ヘッドや再生ヘッドからバイアス電流、フラックスレベル、イコライゼーションキャリブレーションまでのテープマシンの設計はすべて、結果として得られるテープ歪みを最小限に抑えることを目的としていました。Kramer Tapeプラグインには、フラックス設定の制御が含まれています。フラックス設定は、テープのサチュレーションとその結果として得られるコンプレッション、そしてハーモニック・ディストーションの量を決定します。
以下のオーディオサンプルでは、Kramer Tapeが使用されているときに、テープのサチュレーション、軽めのコンプレッションと高域ロールオフが少しずつ適用される様子をお聴きいただけます。
Kramer Tapeでのミックス
J37
J37テープ・マシンは、テープ・マシンの先駆者であるウィル・スチュア(Will Studer)によってAbbey Roadスタジオ向けに設計されました。独特のハーモニック・ディストーション特性を持つ3種類の専用テープを使用した4トラックの1インチテープマシン形式を採用していました。途方もなく大きい52本のチューブ、テープスピード、バイアス、およびサチュレーションのコントロールと組み合わせて設定が可能な、ハーモニック・ディストーションマシンです。テープスピード、テープ設計、バイアス、録音レベル、およびサチュレーションのキャリブレーションを正しく行うことで、J37はあらゆるサウンドを形成可能な強力なツールです。
この抜粋ビデオの序盤の10分間では、いくつかのオーディオの例を通じて、J37のサウンドをマスターバスに合わせるために使用できる様々なパラメータ群について見ることができます。
4. Aural Exciter:Aphex Vintage Exciter
アナログコンポーネントを駆動して音質を向上させることは、アナログ時代の多くのエンジニアにとって非常に選択的なプロセスでした。結局のところ、歪みの認識は相対的なものです。たとえば、リードボーカルをひどく歪ませる際には、周囲の音の歪みが少ない方が効果的です。それとは逆に、全ての倍音をほんの少しだけ歪ませることで、全体としての聴きやすさが増し、より積極的な処理を施すための余地が残ります。
1970年代半ばに作られたAphex Aural Exciterは、音楽制作における「麻薬」を加えるために特別に設計された最初の製品でした。その時代における他のプロ用オーディオ製品とは異なり、Aphex Aural Exciter独自の目的は、退屈なレコーディングに高域成分と明るさを加える手段として、波形合成によって得られたハーモニック・ディストーションを特定の周波数帯域内に加えることでした。
Aphexが設計したオリジナルのユニットについて最も注目すべき点は、真空管を複数追加したことでした。これによって、奇数倍の倍音成分が加えられ、高域に足される成分とのバランスを取ることが可能となりました。主にボーカルやその他のリードパートで使用されましたが、マスタリング時に高域を強化したいときにはフルミックスに対して適用されることもありました。
次のビデオでは、Aphex Vintage Aural Exciterの使い方について解説しています。様々なミキシング要素に対してこのユニークなツールを実演し、最終的にクールなミックスを得るためのプロセスを学びます。最初に、基本的なモードとコントロールについて紹介します。
ハーモニック・ディストーションを使用するための最後のアドバイス
ハーモニック・ディストーションの処理の仕方を学ぶ最善の方法は、もう少し長い時間試してみることです。アナログ時代のエンジニアは、音楽のスタイルに対して最も適切な音色を加えるためのコンソールを選択します。音楽の聞きやすさを損なうことなく、適切なハーモニック・ディストーションを捉えるためにコンソールをどのように動かすのかを慎重に決定します。
すべてのチャンネルでNLS、J37 Tape、Scheps 73のようなEQを使用してコンソールセットアップを作成すると、特徴的なサウンドを得ることができます。すべてのトラックにコンソールEQを使用する必要はありませんが、プリアンプの設定を慎重に調整して、各トラックの音色を微妙に調整してください。追加のヴィンテージコンプレッサーやEQを追加するときは、すべてを無差別に使用するのではなく、限られた部分に対して使用してください。リードボーカルがPuigChildコンプレッサーを備えた唯一のトラックであれば、独特のハーモニック・ディストーション特性の恩恵を受け、残りのトラックの中で際立って聞こえるはずです。
注意深く練習することで、過去のメソッドや特徴的なサウンドを、あなたの音楽に完全に取り込むことができます。
歴史を遡って...
プロ用のデジタルオーディオ録音機器が1980年代にスタジオに登場したとき、ほとんどのエンジニアは、録音してミックスした音楽にハーモニック・ディストーションを足すことの重要性を理解していませんでした。当時、すべての録音とミキシングはアナログであり、すべてのアナログ機器は様々なハーモニック・ディストーションを含むため、録音されたオーディオのサウンドには常にアナログ特有の成分が含まれていました。それはまるで、魚に対して「水の中で暮らすのってどんな感じ?」と尋ねるようなものです。
当時、デジタル録音機器は、アナログテープのハーモニック・ディストーションを避けていただけで、レコーディングやミックスで使用されるアナログ機器の持つハーモニック・ディストーションを享受していました。テープのヒス、クロストーク、プリントスルーの除去は歓迎された改善でしたが、デジタル記録は依然として多くのエンジニアには受け入れられていませんでした。デジタルミキシングコンソールが市場に参入したとき、それと同様の反響が起こりました。多くの場合、単純に「アナログの方が音が良い」と揶揄されていました。
デジタル技術の進歩に伴って、クロック、変換器、サンプリングレートが向上するにつれて、デジタルオーディオの品質は大幅に向上しましたが、依然として「特別な何か」が欠けているように感じられました。エンジニアは、アナログ技術が持っていたハーモニック・ディストーション特性こそが、この「特別な何か」ではないかと次第に気づき始めました。
デジタル機器の黎明期ではそれほど必要とされていなかった、アナログ機器特有の「特別な何か」。
今日、技術的なブレークスルーによって、この部分がエミュレーションという形で実現されたことで、私たちがよく知っている、あの親しみやすいアナログサウンドが戻ってきました。
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